反ユダヤ政策をとるドイツやソ連に睨まれる、という事業上のリスクはあったはずで、人道的見地からこれを引き受けた同社の勇断は賞賛されて良い。

JTBの職員で実際に天草丸に乗り込んで、輸送を担当した大迫辰雄(おおさこ・たつお)氏の手記が残っている。
昭和15(1940)年の後半から翌年春にかけて、日本海が非常に荒れる時期だった。 「船首が大波をかぶってぐっぐっと沈み、闇金相談 高知甲板が海水で溢れて大丈夫かなと思うほど気色が悪い…」 「(乗船客の)ユダヤ人はパスポートを持たぬ無国籍人が多く、欧州から逃れてきた難民ということで…中には虚ろな目をした人もおり、さすらいの旅人を彷彿とさせる寂しさが漂っていた。
私はこの時くらい日本人に生まれたことを幸せに思ったことはない」 船中で面倒を見てくれた大迫氏への感謝の印として、7人の難民が顔写真を贈っている。 その裏にはフランス語やドイツ語、ポーランド語など、各地の言葉で感謝の言葉が綴られていた。